murakamiのブログ

定年退職後の楽しき日々を綴ったエッセイです

下調べの楽しみ

早目に会社を退職して、元気一杯の間に何度か海外旅行をしようと思っていた。同じ時間と費用をかけても、六十歳の時の旅行と六十五歳での旅行では、享受できる価値に雲泥の差があるのではないだろうか。

そんなこともあって六十の少し手前で自由の身になった。ところが、世の中はそうそう思い通りにはならない。退職とほぼ同時期に妻の母親が体調を崩し、一年後の三月に天に召された。その三ヶ月後には初孫が誕生した。娘婿が中国日産自動車に赴任中の為、娘と孫は十一月末までわが家に滞在したので、この二人を残して海外旅行に行くわけにはいかない。というよりは、孫と一緒に暮らせるなら、海外旅行など何の魅力も感じなかった。


いろいろなことが何とか落ち着いて、六十二歳の誕生日の一週間後の、今年六月二十四日、ようやく海外旅行に出かけられる状況になった。八十八歳の母親は近くの老人福祉施設がショートステイで受け入れてくれることになった。東京の息子と相模原市の娘夫婦にも留守中の世話を頼んだ。


行き先は妻が十年来希望していたイギリスの湖水地方とコッツウォルズである。六月のこの時期がベストシーズンらしい。私は二〇〇五年に会社の仕事でスコットランドのエジンバラとロンドンを訪問して以来二度目のイギリスとなる。


一九七五年に妻とハネムーンでアメリカ西海岸を旅行して以来、二人で何度か海外旅行をしてきた。殆どの場合、旅行前に十分な下調べをせず、結局、成田で飛行機に乗り、シートベルトを締めてからおもむろに旅程表とガイドブックを開くという有様であった。その結果として現地を訪ねても、いまひとつ理解が浅く、十分に堪能できず、正直言って印象も記憶も薄いものだった。


そこで今回は、じゅうぶん事前の準備をした上で出掛けようと、出発日の一週間前から入念に下調べと旅装の準備を始めた。


旅程では、二十四日成田を発ち、同日英国中央部のチェスターに着いて一泊。翌二十五日は、車で北に百七十キロ走って、詩人ワーズワースが暮らした湖水地方の村、グラスミアと絵本で有名なピーターラビットの作者の家を訪問。二十七日には南に下ってコッツウォルズを訪ね、そこで二泊。二十九日に南に向かってロンドンで一泊し、七月一日成田に帰ってくることになっている。


湖水地方では、ワーズワースが住んだ村とビアトリクス・ポターの家を訪問する。ワーズワースの詩は高校の時、教科書に出ていたような気がする。Daffodil(ラッパスイセン)がどうのこうのというような詩で、何の面白みもなかった。今回の旅行では、彼の詩はある程度、賞味した上で訪問したいと思う。私は直感的に、ワーズワースの詩に親しめるかどうかが今回の旅行の価値を左右すると考えている。しかし、インターネットを検索してもワーズワースの作品を入手できなかった。ただ、代表作の一つは『THE PRELUDE』だと知った。


そこで十九日の午前中、プリウスに乗って、自宅から一キロ離れたフェリス女学院大学に駆け込んだ。家から図書館まで十分程度で行ける。研究社が一九六七年に出版した『THE PRELUDE』(『前奏曲』)と福音館書店が一九九七年に発行した『ピーターラビット全おはなし集』という二冊の本を借り出した。


早速『THE PRELUDE』を読み始めた。最初に、英文学者の故前川俊一氏の二十三ページにわたるイントロダクションが書かれている。この論文を読んで事情が大分飲み込めてきた。


THE PRELUDE』は一八〇五年、この詩人が三十五歳の時の作品である。全部で七百五行の自伝的長詩である。読みやすい英語で結構面白い。最初の四行はなかなかいい。日本語に直してみよう。


この優しい微風には祝福がある

風は緑なす野原から、そして雲から吹いてくる

さらに空から。風は私の頬を打ち、

この微風は、自らが与える喜びを半ば分っているようだ。


この本を持参し、行きのヴァージンアトランティック航空の機内、二十四日のチェスターのホテルで、この長詩を読むことにしよう。二十五日はグラスミア散策の際、是非この詩を読む時間を取ろう。その夜から二泊するグラスミア近辺のラングデールチェイスホテルでもこの詩を楽しむことにしたい。ということは、機内でもレストランでも大好きな酒は少し控えねばなるまい。


下調べがこんなに愉しいものだとは知らなかった。心は既にイギリスに飛んでいる。下調べをしている内に、日程が次第次第に理解でき、クリアに頭の中に入ってきた。時間をかけて考えていると、スーツケースに入れる物も無駄なく、漏れも少なくなる。マルコメの三種類の味噌汁を十袋入れた。梅干、レトルトの赤飯・おかゆ、カステラなども用意した。いつも愛飲している芋焼酎「島美人」五合瓶、日本酒の「吉乃川」は二合用意した。スコッチの国で焼酎のお湯割りを飲むのもいいだろう。風呂で使用するタオルは薄手のものが一番である。この一年使ってきて少し穴の開きだしたタオルを入れた。


出発の三日前に、同行する添乗員から電話があった。

「寒い日もあり、雨も降りますので、寒さと雨対策を十分にしてきてください」

早速雨合羽を用意し、靴はマドラスの防水ウォーキングシューズを履いていくことにした。


ビアトリクス・ポターの『ピーターラビットのおはなし』はこれまで知らなかった。借りてきた本を開いて読んでみると、どこかでこの兎の絵を見たことがある。半世紀ぶりに読む絵本。優しい絵で色彩もよい。文章もすばらしい。


旅の準備が進むにつれて、旅行のイメージがどんどん膨らんでいくと同時に、幾つかの疑問点が出てきた。これらは手帳にメモしておき、添乗員、ホテルのコンシェルジェなどに教えて貰おう。


物事はやはり、受身ではなく、能動的に働きかけるスタンスで進めていくのが一番いいようだ。下調べを始めて四、五日経って、既にイギリス旅行をしている自分を発見する。現地に行けば、また違う現実があり、期待を裏切られることや予想外に嬉しいことにも遭遇するだろう。イギリスはきっと、しっかり準備した私達に感動やさまざまなサプライズを与えてくれるだろう。明日二十四日から楽しみな一週間が始まる。               (二〇一二年)




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