murakamiのブログ

定年退職後の楽しき日々を綴ったエッセイです

錆びたナイフ

砂山の砂を指で掘っていたら、まっかに錆びたジャックナイフが出てきた。

これは石原裕次郎が一九五七年に発表した曲の歌詞である。よく響く甘い声、スローテンポのやさしいメロディ。何度きいてもいい曲だ。


わが家の台所を整理していたら、錆びたナイフが出てきた。刃渡り二〇・五センチの刺身包丁である。どこのどいつが買ったのか♪ と歌いたいところだが、二十年ほど前に、浅草の合羽橋道具街で買ったものだ。見事に錆びている。これではどうにもならない。即刻捨てよう。しかし、刃渡りの長い包丁だから捨て方も慎重にせねばなるまい、と思いながら捨てないままで時間が過ぎた。


天然魚の刺身が大好物である。天然物は高いので、たこやイカ、冷凍のまぐろを買うことが多い。かつを、あじ、いわしも旨い。刺身は酸化するので必ずさくで買い、食べる直前に切る。包丁は香典返しのカタログギフトで貰ったステンレス製のものを使っている。三千円程度のものだ。この包丁が切れなくて困っている。イカをしっかり切った積りでも、箸で摘みあげると数珠繋がりになっていることが多い。妻から軽蔑の眼差しを受ける羽目になる。


日に日に、切れる包丁がほしいとの思いが募ってきた。思い立ったら吉日で矢も盾もたまらず、へそくり預金から引出した三万円を握りしめて横浜東急ハンズに駆け込んだ。三階の台所用品売り場には所狭しと調理用品が並んでいる。刃物コーナーで興味津々にさまざまな包丁を物色する。安いものは二千円位からあり、一万円を超える包丁はガラスケースに入れられ鍵がかかっている。店員に鍵を開けて貰い、一万四千八百円のステンレスの刺身包丁を買うことに決めた。刃渡りは二〇センチほどで銀色にギラリと光り、これなら切れそうだ。


念のため、四〇前後で小太りの女性店員にきいてみた。

「鉄製が切れると思いますが、直ぐ錆びるので困ります。このステンレス包丁は切れますかね?」

「ステンレスは切れません。切れるのは鉄製です。ステンレスも鉄も研がないとすぐ切れなくなります」


実に事務的な対応である。商品を売ろうという意思はまったく感じられない。さっさと鍵をかけてレジに帰っていった。やっぱり鉄製でないとダメなのか。しかし鉄製はすぐに錆びてしまう。意思決定ができなくなり、手ぶらで店を後にした。帰宅して錆び錆びの包丁を眺めてみた。一万円以上払って買ったときはピカピカで、実によく切れた。ふと、研いでみようかなとの思いが浮かんだ。シンク下の収納スペースを探すと埃にまみれた砥石が出てきた。包丁と砥石に水をかけて研ぎ始めた。直ぐ赤黒い液が流れ出す。水で洗い流しながら研いでいると、鉄の地肌が少し見えてきた。こうして何度か研いでいると、次第に綺麗な包丁になってきた。段々包丁研ぎがおもしろくなってきた。これもその道のやり方というものがあるのであろうと、インターネットを調べた。結構難しいことが書いてあり、直ぐに分かるようなものではない。一つ分かったことは、研いでいると出てくる粘土状のものを水で流してはいけないということだ。粘土状のものが研磨剤の役割を果たすらしい。今度は水で洗い流さずに研ぎ始めた。刃物を扱っているので指を切らないように注意している。指を切ったらピアノの練習ができなくなるのだ。料理の時もおおいに差し障る。細心の注意を払って、黙々と研いでいると雑念が一切ふり払われ、気分がいい。

「ほらほら、また始まった」

妻に冷やかされた。


一週間ほど経つと立派な刺身包丁に変身した。ルーペで刃先全体を観察すると下から二センチほどの所で一か所刃がこぼれている。長時間研いでいればその内修復できるだろう。研いだ後は布巾で拭い、自然乾燥の後、オリーブオイルを塗り、サランラップを巻いて仕舞う。


包丁が綺麗になると切れ味を試したくなる。横浜そごう地下の魚金でまぐろのさくを買ってきた。さて切れるだろうか。慎重に刃先をまぐろに当て、えぃと包丁を手前に引いた。切れる!まるで違う。包丁が魚にすーっと入り込み、繊維に当たるとブサっと一瞬で断ち切る。これまでは、繊維のところで包丁を鋸のように使い、刺身がぐにゃぐにゃになっていた。スパッと切れるから形が崩れない。切られた端面が実にシャープである。味が格段にいいのは言うまでもない。


いい包丁を手にすると、いい魚がほしくなる。魚売り場で商品を見るときも気合が入ってきた。さくを切り分けるときもプロの板前になった気持ちで臨む。食べるときも、盛岡から取り寄せた「あさ開(びらき)」などの旨い酒を汲み、慈しみながら頂く。


東急ハンズの店員さんの一言で、捨てられる運命にあった包丁が復活した。包丁を研ぐという楽しみを見つけることもできた。裕次郎は真っ赤に錆びたジャックナイフがいとしいと歌っている。私も刺身包丁がいとしくてならない。そろそろ夕食を用意せねばならない。今日はスーパーにいい魚があるだろうか。        (二〇一一年)

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