murakamiのブログ

定年退職後の楽しき日々を綴ったエッセイです

カマクレンツェ


 二階の書斎から森をながめると全体的に黄緑がかっており、中央に一本ある桜の葉が橙色になっている。その下ですすきが穂を揺らしている。十月下旬、秋たけなわである。午後三時過ぎ、キャリーバッグを従えて家を出た。月曜日の昼下がり、青空の下をこころよい風を感じながらゆっくりと町内を歩く。キャリーバッグはコロコロと音を立てながらあるじに付いてくる。


好きな町はどこかと訊ねられたら、まよわず鎌倉とフィレンツェと答えるだろう。フィレンツェは中小貴族や商人からなる支配体制が発展して十二世紀に自治都市となり、同じ頃鎌倉幕府が樹立された。両方とも歴史遺産が多く、居心地がよい。どことなく共通なものを感じる。私は十年ほど前から、個人的に鎌倉に「カマクレンツェ」というニックネームをつけている。今日はそのカマクレンツェ詣での日なのである。


最寄りの相模鉄道南万騎が原駅から横浜に出て横須賀線に乗り換えると六つ目の駅が鎌倉である。所要時間はわずかに五十一分、運賃は五八六円。この近さ、費用の安さがたまらなくありがたい。鎌倉駅のホームに降り立つと、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅に着いた時のことを思い出す。


改札を出て鎌倉八幡宮を背に、若宮大路を由比ヶ浜に向かってそぞろ歩く。鎌倉警察署前の欅がわずかに黄色くなっているが紅葉はまだのようだ。徳川家綱が寄進した、堂々とした一の鳥居を過ぎて右に折れる。由比ヶ浜町には敷地が百坪を軽く超える豪邸が立ち並んでいる。真っ赤に熟したすずなりの柿が印象的だ。人通りの少ない、整った街をゆっくり歩く。

(やっぱり鎌倉だな。落ち着くな。たのしいなぁ。)


 駅から二十分歩いて、江ノ電由比ヶ浜駅踏切を渡ると、今宵の宿に辿り着く。日産自動車鎌倉倶楽部である。日産の社員の間で人気の高い保養施設で、休日は抽選制でなかなか予約が取れないようだ。社員の娘婿一家もこれまでに一回しか利用できていない。配偶者の両親まで利用可能で、私は比較的空いている平日に利用させて貰っている。社員でもないのに既に五回利用させて貰った。娘婿と日産自動車、そしてカルロス・ゴーンさんに心から感謝している。


 五時過ぎ、磨き上げられた石造りの大きな湯船に体を横たえた。体に触れる、滑らかに研磨された薄緑色の石の感触がたまらない。月曜日の夕方五時、湯気で煙る広々とした風呂を一人で楽しむ。何という贅沢だろう。

(定年退職、万歳!)


 午後六時、テニスクラブで二十五年にわたって共にプレーしてきた河井さんと井上さんが倶楽部に来てくれた。めでたく古稀を迎えられたお二人の祝賀会を計画したのだ。広い庭に面したテーブルに座り、サッポロ生ビールの中ジョッキで乾杯した。

「この生ビールはうまいね」

酒通の河井さんの言葉に井上さんもうなずいている。確かに旨い。先付は長芋となめ茸、前菜はいか一夜干し、お造りは鯛・帆立・甘海老。ジョッキ片手に舌鼓を打っていると、小芋・きのこ・牛肉の小鍋に火をつけてくれた。この鍋が甘さ・辛さとも丁度よく絶品だ。この後もぶりの焼き物、菊花のかき揚げなどの料理が続き、巨峰とメロンのデザートまで全部で十品が供され、三人とも完食していた。

「七十になったが、正直さほど嬉しいものではない。この先、健康に過ごし病気になる前にあの世にいきたいものだ」

古稀の先輩二人が口を揃えていた。確かに、介護長寿ではなく、健康長寿でなければ意味がない。


 古稀の宴は八時半まで続いた。二人を玄関の外の格子戸で見送り、九時過ぎに就寝した。ぐっすり眠り、翌朝は五時過ぎに目が覚めた。カーテンを開けると、窓越し左側に刈り整えられた松の木、右側前方に江ノ電の踏切遮断機が見える。とにかく静かである。何も考えずぼーっとしている。おちついた、いい気分だ。タオルを持って風呂場に向かう。朝一番の風呂も格別だ。既に一人先客がいる。

「おはようございます」


 一風呂浴びて冷えた水を飲み、キャリーバッグに入れてきたパソコンを立ち上げる。今月初めにNHKBSで放送されたコンサートをDVDに録画してきた。モーツァルト ヴァイオリンソナタト 長調 ケッヘル301である。ヘッドフォンをつけてDVDを回す。ヴァイオリンはミュンヘン国際コンクールで優勝した久保田巧。いきなり、伸びやかで瑞々しいメロディが歌いだす。春がきて暖かく、うれしくて仕方ないという感じがする。テロップで「日本を代表する女流ヴァイオリニスト」と紹介される。早朝の古都の静寂さのなかで、モーツァルトの妙なる音楽を聴く。人生でもっとも尊い時間である。


 第一楽章、第二楽章と曲が進むにつれて、次第次第にピアノ伴奏をしている演奏者に目が行くようになった。このソナタではヴァイオリンだけでなく、ピアノもメロディを歌いあげる箇所が多く、カメラも三、四割はピアニストを大写しする。その演奏がまたすばらしい。ヴァイオリニストにしっかり寄り添いながらも、音楽に没入し、見事なハーモニーを作っている。白い肌に切れ長の目と高く形の良い鼻も印象的だ。曲の後半ではピアニストに釘付けになった。


 このピアニストは村田千佳といい、将来を期待される若手演奏家だと紹介された。DVDを見終わって、このピアニストの演奏会にどうしてもいきたくなった。早速インターネットにアクセスしてコンサート情報を検索する。まだ三十歳前後で演奏会は余り開いていないようだ。いろいろなキーワードを入力して根気よく検索していると、ようやく一件のコンサートを見付けることができた。来年二月、東京大手町の日経ホールで開かれる演奏会だ。ウィーンフィルの首席フルート奏者の伴奏者として演奏する。ホール中央のステージから八列目の席を予約できた。来年二月四日がなんとも楽しみだ。


 久しぶりに訪れた鎌倉で、球友の古稀を祝い、ゆっくり風呂を楽しみ、思いもかけず素晴らしい若手ピアニストに出会うことができた。カマクレンツェの思い出でがまた一つ加わった。近く、安く、短い旅ではあるが、生涯忘れることのない旅となろう。


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