murakamiのブログ

定年退職後の楽しき日々を綴ったエッセイです

イェルク・デームス ピアノリサイタル

ウィーンにイェルク・デームスというピアニストがいる。一九二八年生まれだから今年八十三歳になる。一九五六年ブゾーニ国際コンクールで優勝して以来、世界各地で演奏活動を行っている。パドゥラ・スコダ、フリードリッヒ・グルダと共にウィーンのピアニスト三羽烏として令名を馳せてきた。

今年五月二十三日、横浜でデームスのリサイタルをきいた。会場は京浜急行上大岡駅に隣接する港南区民文化センターである。開場十分前の十八時二十分に入口に着くと、既に四十人位の人が並んでいた。最後尾につくと、私の後ろにも人が並び続け、十九時の開場の時には百人を軽く超える人が列をなしていた。


私は四箇所の席に座ってみてピアニストの指の動きが一番見えやすい席を探し、前から六列目、左から六番目の席に座った。余り前の席だとピアノが目線の上になって鍵盤が隠れてしまうのだ。


ステージの中央に置かれたグランドピアノは、世界四大ピアノメーカーのひとつ、ドイツのブリュートナー社が創業五十周年を記念して、一九〇五年に製造したジュビリーモデルである。かつてウィーンのデームス邸にあったピアノである。果たしてデームスは“ジュビリー”からどんな音を奏でるのだろうか。開演までの三十分間、わくわくした気分で今年百七歳のピアノを見詰めていた。開演十分前にはホールは観客で埋まった。開演前にアナウンスがあった。

「本日のリサイタルはライヴ録音を行いますので、ご配慮くださいますようお願いします」普通、開演前のホールはざわざわした感じがあるものだが、この夜は開演が近づくにつれて、満席の会場はざわめきが消えておごそかな雰囲気に包まれた。


やがてホールのライトがゆっくりと照度を落としていき、スポットライトがステージを明るく照らし始めた。ステージ左の袖から白髪のイェルク・デームスがゆっくり歩いて出てきた。明らかに八十を疾うに過ぎた老人である。靴は革靴というより、茶色のカジュアルシューズに近い。


拍手を受けてピアノの前に座った。バッハ作曲パルティータ第一番「前奏曲」の演奏が始まった。指が白く、長い。やわらかく、しかし芯のある音が、なめらかなレガートでたっぷり歌っている。私の一・三倍はありそうな長い指が鍵盤とさほど離れていない位置を保ったまま、慈しむように鍵盤に触れ、踊っている。余りの音の美しさに思わず目を閉じてきき入った。二百六十年前に六十五歳で世を去ったバッハを、カバーを開けたグランドピアノの弦の上に呼び寄せているようだ。


肩、腕、手首、指、一切の力が抜けている。早いパッセージでも軽々と妙なる音色で歌っていく。私の真後ろに本格的にピアノをやっているような中年女性が夫とおぼしき男性と座っていた。

「きれいな音だわねぇ」

とため息をもらしている。


ベートーヴェンのピアノソナタ第十七番「テンペスト」。中学生の頃から五十歳位までよくきいていたベートーヴェンの曲を、重過ぎると感じてきかなくなって十年ほど過ぎている。久し振りにきくベートーヴェン。この曲は多少モーツァルト的雰囲気がある。デームスの演奏の音量が上がった。バッハ、モーツァルトと鍵盤の近傍に留まっていた手の上下幅が大きくなった。力強く、男性的にピアノがうたう。低音部が美しい。目を閉じて体を音に委ねた。まさにオーケストラの音量だ。小指の根元にもしっかり筋肉がついていて堂々たる音が出る。そして、歌われた音が驚くほど力を維持したまま長く伸びていく。ペダルを踏み続けているのだ。日頃、私の先生から言われていることのすべてが完成している。


低音部のフォルテッシモも中音部、高音部の音量と、にくらしいほどバランスがとれていて、美しいハーモニーになっている。八十三歳でもこんなに若々しくうたえるのだ。ベートーヴェンってこんなに美しかったのか。第三楽章は高音部の主旋律が際立って美しい。いつまでもきいていたい音楽。鍵盤上のデームスの指のダンスはメジャーリーガー、イチローのバット捌きのように見事だ。


手が痛くなるほど拍手をした。聴衆の喝采は鳴り止まず、デームスは舞台袖から再び現れ、右手を胸に当て深々と頭を下げた。


リサイタルはこの後、ドビュッシー、フランクの曲が続き、興奮さめやらぬ聴衆の拍手に応えて三曲のアンコールが演奏された。終ったのは九時二十分を過ぎていた。二時間半近くの熱演だった。終演後、多くの人が舞台近くに集まってジュビリーを写真に収めていた。


このブリュートナー社製のジュビリーは、普段は私が住んでいる横浜市旭区柏町の楽器店「ピアノクリニック<font face="Century"> </font>ヨコヤマ」の店舗に置かれている。この店の横山社長がデームスがオーストリア、フランスに所有している八十数台のピアノの調律をしている関係で、数年前にデームスから譲り受けたピアノなのだ。かって一千万円余りの値段がついていたが、今は非売品と標示されている。


演奏会の三日前、私は今回のリサイタルチケットを買いにこの店に行き、ついでにジュビリーを弾かせて貰った。楽譜は持参していなかったが、ブルクミュラー第三番の「パストラル(牧歌)」、第十五番の「バラード」と、『バーナム ピアノ テクニック 3』の四つの練習曲を二十分ほど弾いた。驚くほど甘い音が出た。音も大きい。鍵盤は今は禁止されている象牙で出来ていて、指の湿り気のため指が鍵盤に吸い付く感じがする。

「昨日、デームスさんがこのピアノで練習されていました。今夜は上野の東京文化会館でリサイタルです」

帰ろうとする私に店員の人が声をかけた。


三日後の夜きいたジュビリーは、ほとんど全く違う音を出していた。弾き手が月とスッポンの違いなのだから当然のことだ。それにしても、三日前に手に触れたピアノを世界の巨匠と言われるアーティストの演奏できけたことは特別なことであり、幸せな経験だ。生涯忘れられないコンサートになるだろう。        (二〇一一年)





×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。