murakamiのブログ

定年退職後の楽しき日々を綴ったエッセイです

手紙

 インターネットが普及するにつれて色々な人と電子メールをやり取りすることが多くなった。メールが増えるにつれて手紙の交換は減る一方で、これは時代の流れなのだろう。そんな中でコンスタントに手紙をやり取りしている人がいる。兵庫県淡路島で診療所長をしている大鐘稔彦さんである。

 大鐘先生とは不思議な出会いだった。二〇〇七年二月のある朝、食卓で日経新聞を読んでいると幻冬舎が発行した文庫本の広告に眼が留まった。『孤高のメス』という小説で、大学病院を飛び出したアウトサイダーの腕の良い外科医の物語である。私は昔から医療小説が好きなので直ぐに手帳を取り出し、書名と著者名をメモした。午前中の仕事を終えて昼食をとった後、オフィス一階の書店に行くと『孤高のメス』が平積みにされていた。早速買い求め、オフィスに戻ってページを開いた。予想を遥かに上回る面白さで、二、三ヶ月で全六巻を夢中で読み上げた。一巻を読了する毎に妻に渡すと、妻もとても面白いと言い、次の巻を待ち構えていた。


その妻が第三巻を読んでいた時、この作家の名前になんとなく見覚えがあると呟いた。妻の母親が、淡路島で短歌の会に参加しており、その会の歌集に大鐘さんの名前があったという。早速、妻が実家に問い合わせると、確かに同一人物だと判明した。


 全六巻を読んでみて、小説自体が非常に面白いと同時に、原作者の医道に対する熱い情熱と医師としての真摯な姿勢がひしひしと伝わってきて、是非一度お目にかかってみたいと思うようになった。義母を通じて、大鐘さんにお会いできるかどうかと尋ねた。

「来て頂いても結構ですが、それまでに一度お手紙を戴きたい」


との返事である。その年の六月、大鐘さんに初めて手紙をしたためた。その中で私は、『孤高のメス』を読んで医療の現場に対する既成概念が覆されたことや、描写されている手術シーンで十分理解できない箇所がかなりあるので、今度は解剖図等を傍らに置いて読みたい、などと書いた。


 八月中旬、初めて大鐘先生を訪ねた。片道一車線の国道二十五号沿いの診療所前に立つと、目の前に夏の瀬戸内海が視界一杯に広がっており、振り返ると濃緑の樹木が小高い丘の頂上まで生い茂っていた。外科医としてメスを置くまでに六千例の手術を手がけ、書いた小説がベストセラーになっているという人だけに、そのパワーに圧倒されてしまうのではないかと内心非常に不安だった。義母と妻の三人で待合室で待っていると五分ほどして、白衣を着た大鐘先生が現れた。先生は温和な雰囲気で笑みを絶やさず、ゆっくり話す。先生の響きのよい声をきいていて、私の不安は次第に解けていった。三十分ほど話をして最後に解剖図の本の紹介をお願いすると、大学病院の書店に行けば沢山置いてあると言われた。


 横浜に帰った次の日、太陽が照りつける猛暑の中を娘が卒業した旗の台の昭和大学に行った。医学部の書店で何冊か見比べた後、『ネッターの解剖学』という本を買った。税込み一万円だった。解剖図で人体腹部のカラー断面図を参照しながら、膵臓癌手術で腹膜を切り開くシーンを読み返すと、まるで自分が助手として主人公・当麻鉄彦の手術に立ち合っているような錯覚に陥る。これだけ切り込めば血が噴出すのも無理はない。数日後、大鐘先生に面談の礼状を書き、解剖書を見ながら手術シーンを再読すると非常に理解が進み、更に感動が深まったと付け加えた。


 半月ほどして返事がきた。ネッターの解剖書は大鐘先生の医学生時代の必携書であったこと、その解剖書を見ながら小説を再読してくれているとは、感服、脱帽だと書いてあった。それ以来七年間、二ヶ月に一度位のペースで手紙のやり取りが続いている。手紙の話題は医学、過去の著作、『孤高のメス』の映画化、卓球、テニス、歌会などである。この間、私が淡路島にテニスをしに行ったり、先生が上京した折に食事をしたりしており、これらの日程なども手紙で調整している。


 先生の手紙は Toshihiko Ogane という名前が印刷された個人専用便箋に書かれており、宛名は毛筆で封筒一杯に書かれている。便箋の淡い黄色、黒インクで書かれた個性的な筆跡、時々修正液で訂正した跡など、電子メールにはない情緒が溢れている。一人静かに、先生からの沢山の手紙を読み返すと、「手紙は人なり」と思えてならない。                           (二〇一三年)


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カマクレンツェ


 二階の書斎から森をながめると全体的に黄緑がかっており、中央に一本ある桜の葉が橙色になっている。その下ですすきが穂を揺らしている。十月下旬、秋たけなわである。午後三時過ぎ、キャリーバッグを従えて家を出た。月曜日の昼下がり、青空の下をこころよい風を感じながらゆっくりと町内を歩く。キャリーバッグはコロコロと音を立てながらあるじに付いてくる。


好きな町はどこかと訊ねられたら、まよわず鎌倉とフィレンツェと答えるだろう。フィレンツェは中小貴族や商人からなる支配体制が発展して十二世紀に自治都市となり、同じ頃鎌倉幕府が樹立された。両方とも歴史遺産が多く、居心地がよい。どことなく共通なものを感じる。私は十年ほど前から、個人的に鎌倉に「カマクレンツェ」というニックネームをつけている。今日はそのカマクレンツェ詣での日なのである。


最寄りの相模鉄道南万騎が原駅から横浜に出て横須賀線に乗り換えると六つ目の駅が鎌倉である。所要時間はわずかに五十一分、運賃は五八六円。この近さ、費用の安さがたまらなくありがたい。鎌倉駅のホームに降り立つと、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅に着いた時のことを思い出す。


改札を出て鎌倉八幡宮を背に、若宮大路を由比ヶ浜に向かってそぞろ歩く。鎌倉警察署前の欅がわずかに黄色くなっているが紅葉はまだのようだ。徳川家綱が寄進した、堂々とした一の鳥居を過ぎて右に折れる。由比ヶ浜町には敷地が百坪を軽く超える豪邸が立ち並んでいる。真っ赤に熟したすずなりの柿が印象的だ。人通りの少ない、整った街をゆっくり歩く。

(やっぱり鎌倉だな。落ち着くな。たのしいなぁ。)


 駅から二十分歩いて、江ノ電由比ヶ浜駅踏切を渡ると、今宵の宿に辿り着く。日産自動車鎌倉倶楽部である。日産の社員の間で人気の高い保養施設で、休日は抽選制でなかなか予約が取れないようだ。社員の娘婿一家もこれまでに一回しか利用できていない。配偶者の両親まで利用可能で、私は比較的空いている平日に利用させて貰っている。社員でもないのに既に五回利用させて貰った。娘婿と日産自動車、そしてカルロス・ゴーンさんに心から感謝している。


 五時過ぎ、磨き上げられた石造りの大きな湯船に体を横たえた。体に触れる、滑らかに研磨された薄緑色の石の感触がたまらない。月曜日の夕方五時、湯気で煙る広々とした風呂を一人で楽しむ。何という贅沢だろう。

(定年退職、万歳!)


 午後六時、テニスクラブで二十五年にわたって共にプレーしてきた河井さんと井上さんが倶楽部に来てくれた。めでたく古稀を迎えられたお二人の祝賀会を計画したのだ。広い庭に面したテーブルに座り、サッポロ生ビールの中ジョッキで乾杯した。

「この生ビールはうまいね」

酒通の河井さんの言葉に井上さんもうなずいている。確かに旨い。先付は長芋となめ茸、前菜はいか一夜干し、お造りは鯛・帆立・甘海老。ジョッキ片手に舌鼓を打っていると、小芋・きのこ・牛肉の小鍋に火をつけてくれた。この鍋が甘さ・辛さとも丁度よく絶品だ。この後もぶりの焼き物、菊花のかき揚げなどの料理が続き、巨峰とメロンのデザートまで全部で十品が供され、三人とも完食していた。

「七十になったが、正直さほど嬉しいものではない。この先、健康に過ごし病気になる前にあの世にいきたいものだ」

古稀の先輩二人が口を揃えていた。確かに、介護長寿ではなく、健康長寿でなければ意味がない。


 古稀の宴は八時半まで続いた。二人を玄関の外の格子戸で見送り、九時過ぎに就寝した。ぐっすり眠り、翌朝は五時過ぎに目が覚めた。カーテンを開けると、窓越し左側に刈り整えられた松の木、右側前方に江ノ電の踏切遮断機が見える。とにかく静かである。何も考えずぼーっとしている。おちついた、いい気分だ。タオルを持って風呂場に向かう。朝一番の風呂も格別だ。既に一人先客がいる。

「おはようございます」


 一風呂浴びて冷えた水を飲み、キャリーバッグに入れてきたパソコンを立ち上げる。今月初めにNHKBSで放送されたコンサートをDVDに録画してきた。モーツァルト ヴァイオリンソナタト 長調 ケッヘル301である。ヘッドフォンをつけてDVDを回す。ヴァイオリンはミュンヘン国際コンクールで優勝した久保田巧。いきなり、伸びやかで瑞々しいメロディが歌いだす。春がきて暖かく、うれしくて仕方ないという感じがする。テロップで「日本を代表する女流ヴァイオリニスト」と紹介される。早朝の古都の静寂さのなかで、モーツァルトの妙なる音楽を聴く。人生でもっとも尊い時間である。


 第一楽章、第二楽章と曲が進むにつれて、次第次第にピアノ伴奏をしている演奏者に目が行くようになった。このソナタではヴァイオリンだけでなく、ピアノもメロディを歌いあげる箇所が多く、カメラも三、四割はピアニストを大写しする。その演奏がまたすばらしい。ヴァイオリニストにしっかり寄り添いながらも、音楽に没入し、見事なハーモニーを作っている。白い肌に切れ長の目と高く形の良い鼻も印象的だ。曲の後半ではピアニストに釘付けになった。


 このピアニストは村田千佳といい、将来を期待される若手演奏家だと紹介された。DVDを見終わって、このピアニストの演奏会にどうしてもいきたくなった。早速インターネットにアクセスしてコンサート情報を検索する。まだ三十歳前後で演奏会は余り開いていないようだ。いろいろなキーワードを入力して根気よく検索していると、ようやく一件のコンサートを見付けることができた。来年二月、東京大手町の日経ホールで開かれる演奏会だ。ウィーンフィルの首席フルート奏者の伴奏者として演奏する。ホール中央のステージから八列目の席を予約できた。来年二月四日がなんとも楽しみだ。


 久しぶりに訪れた鎌倉で、球友の古稀を祝い、ゆっくり風呂を楽しみ、思いもかけず素晴らしい若手ピアニストに出会うことができた。カマクレンツェの思い出でがまた一つ加わった。近く、安く、短い旅ではあるが、生涯忘れることのない旅となろう。


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母と飲むぬる燗

 八九歳の母は、今年になって骨粗しょう症や変型性腰椎症が一段と進行し、四月中旬老人ホームに入居した。私達夫婦が三十三年前に横浜で家を買ったとき、生まれ育った福井から出てきてずっと一緒に暮らしてきた。横浜に来たとき四歳と一歳だった二人の孫は、大学を卒業して、上の息子は就職して東京で働き、下の娘は結婚して相模原市に住み育児に余念がない。私は三年前に退職した。

各種のホームの中から私は「サービス付き高齢者住宅」を選んだ。賃貸アパートと必要に応じた介護サービスがセットになっている点を評価したからだ。学習研究社が新規事業として取り組んでいるホームである点も決め手だった。経営基盤がしっかりしていると思った。

賃貸住宅なので、入居の際は二か月分の敷金を支払い、毎月家賃五万九千円を支払う。この他に、共益費二万円、サービス費が三万二千円。食費は一日千五百円だから月額四万五千円で、一か月の合計は十五万六千円となる。これに、介護保険によるサービス、自費でのサービスに対する費用、医療費と小遣いが必要となる。介護が不要な間は費用は小さく、介護度が上がるにつれて増加していく。母は現在要介護1なので、介護費で三万円、医療費が一万円、小遣いが二万円、全部で月額二十二万円ほどになる。このタイプのホームは入居金がないというのも売りの一つであろう。その反面、介護度が進むと月々の費用が相当大きくなるリスクがある。

ホームは「学研ココファン愛甲石田」という。少子化で主力の教育雑誌が売れなくなった学習研究社が始めた新規事業である。子供の頃、学習研究社の雑誌を読んで育った人たちが今や七十、八十代になり、学研のホームに入居して余生を過ごす、まさに揺りかごから墓場までという図式である。ココファンとは、comfortable(快適な)、conversation(会話)、fun(楽しみ)などの言葉を合成したものだ。既に全国で四十二の事業所を展開している。

ココファン愛甲石田は昨年九月に事業を始めた。総戸数は四九戸であり、母は二十五戸目として新築の部屋に入居した。半分の部屋はまだ入居者募集中である。四階建てのホームの真横に「石田子安神社」という大きな神社がある。見学にきた時、立派な神殿と数百年の樹齢を感じさせる緑ゆたかな鎮守の森が気に入り、直感的にこのホームはいいと思った。

ホームに入ると決めた後、母は住み慣れた家族と離れることに大きな淋しさを感じ、何度も泣いた。この寂しさやストレスで、認知症を発症しないだろうかと大変心配した。入居後は、なかなか親しい友人が見つからず、こころもとないと言っている。卒寿を目前にしての大きな環境変化になじむには相当な時間と忍耐が必要だろう。

入居した日、私は食堂で母と夕食を摂り、風呂に入って、同じ部屋で眠った。老人ホームの知識がまったくなかった私は、いきなり老人ホームそのもので生活し、日本の高齢化社会を身を以て体験している。食堂で食事している人たちは、平和で静かな生活を送っている反面、親しい家族と離れて、どことなく孤独な雰囲気がする。

その後も頻繁にホームに足を運んで問題解決に取り組んでいる。これからお世話になるお医者さん探しも大変だ。横浜では、内科・眼科・皮膚科・整形外科・歯科など、自宅から徒歩十分前後のところに診療所が集積していた。母はなんとか歩いて通院していた。しかし、愛甲石田ではそうはいかない。医院は非常に分散している。ホームに常駐しているケアマネージャーに評判のよい医院を教えて貰い、母を連れて一軒ずつ医院詣でをしている。今後は、通院の際は私が連れていくか、ホームにタクシーを呼んで貰って通院することになる。医院の予約やタクシー手配など、ホームと連携して私がすべてマネージメントすることにしている。

母の要望にひとつずつ丁寧に対応していくにつれて、漸く落ち着きが見られるようになってきた。入居している方のことも少しずつ分かってきたようだ。依田事業所長、佐藤ケアマネを初めとするスタッフは実に親身に、かつてきぱきと世話をしてくれている。私もやっと人心地つけるようになった。

今日はソファ二脚とテーブルが届いた。これまではホームの椅子を二脚借りており、テーブルはなかった。部屋にテーブルがあると格段に落ち着いた雰囲気になる。母は早速テーブルで電話番号の整理を始めた。部屋で過ごす時間が楽しく、快適になって貰いたいと願っている。

家からホームまでドアツードアで丁度一時間かかる。母を訪ねて小田急小田原線で海老名から愛甲石田に向かうとき、なぜかとても楽しい気分になる。建物が集積している風景が突然、広々とした近郊農場に変わる。夕食を一緒にするときは、近くのスーパーで地魚の刺身を買っていく。地魚を肴に、母と日本酒のぬる燗を飲む。「おいしい」。母は慈しむように日本酒を飲む。老人ホームで酒を酌み交わしていいものだろうか。ホームの料理はしっかり出しを取り、うす味で本当においしい。一段と私の酒が進む。

母が眠っている時、私はすわり心地のよいソファにもたれて読書を楽しむ。キャリーバッグでいつもパソコンを持参しているので、ヘッドフォンでパソコンから音楽をきき、様々なファイルを開いてキーボードを叩く。なんと幸せな時間だろう。人生の最後を過ごしている母の居室が、私には、ささやかな新しい別荘と思えている。

母の介護はこれからますます困難の度合いを増すだろう。私にも大きな試練の場となる。耐えられるかどうか自信はない。ココファンの皆様のサポートを頂いて、受け身ではなく、早め早めの対応をしていきたい。母の介護を始めて、私自身の明日の姿を見ている。それは決して遠い将来のことではない。文字通り「明日」のこととしか思えない。母に、より充実した楽しい日々を送って貰えるよう、こまめに手紙を送り、電話をかけ、できるだけ数多くホームを訪問していこうと思っている。来年の春は、飛び切り旨い日本酒を用意して、母と共に子安神社の桜を心行くまで楽しみたいものだ。(二〇一三年)










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