murakamiのブログ

定年退職後の楽しき日々を綴ったエッセイです

何気ないひとことから

三十歳の時テニスを始め、今年で三十一年になる。三十五歳の時に横浜市の保土ヶ谷ローンテニスクラブの会員になり、以来ずっとこのクラブでテニスを楽しんでいる。五十歳位までは、土日はテニス漬けのような生活で、朝九時から昼食をはさんで夕方五時までプレーしていた。一日に七セットや八セットやっていた。

最初はテニススクールに通い、その後はテニステクニックの本を読んだり、上級者の技を盗んだりして、それなりに上達した。五十を過ぎてからは、次第にテニスの時間も減り、腕もそれほどは上達せず、五十肩になったり肘を痛めたりで長期間休んだこともある。

二月程前、娘婿が赴任先の中国広州市から一時帰国した。彼は十年ほど前、慶応大学在学中はスカッシュ部に入っていて、インターカレッジで優勝したこともある。彼を囲んで食事をしていたとき、テニスの話題になった。彼はテニスをやっている友人の話として、「ボールの縫い目を見るのが肝心だそうですね」

と何気なく言った。テニスのボールには、硬式野球のボールのような縫い目はないが、フェルトが貼ってなくてゴムがむき出しになった所があり、これが野球のボールの縫い目のようになっている。

次の日の朝、テニスクラブに行った。ストレッチを入念にやって、友人と練習を始めた。ボールの縫い目を見ようと、飛んでくるボールを見つめた。ボールは高速度で回転しており、縫い目なんて全然見えない。それでもボールを見つめながら打ち返し続けた。その内、ボールは縦に回転していたり、斜めに回転していたりすることが分った。何十球に一球、ゆったり回転しているボールがきた。そのボールがネットの上を越えるとき、ゆっくり回っている縫い目が見えた。ボールはコートに落ちると、摩擦を受けて再び回転する。

練習している内に、いつもと違うことに気がついた。これまでより格段に生きの良いショットが相手コートに返っていくのだ。ボールがラケットに当る感触も、これまではボールがガット(糸)に当って跳ね返る感じであったが、今日はボールが多少ガットにめり込む感じがする。ボールを見つめているので、より近くまでボールの軌道を確認でき、ラケットのスイートスポットに当る確率が上がっているのだろうか。

三十分ほど練習した後、いつものように試合を始めた。やはりいいショットを打つことができる。何年間も一緒にテニスを楽しんでいる桑田さんや井上さんも、今朝の村上さんの球はどこか違うという顔をしている。打ち合いの時だけでなく、サーブの際、トスを上げる時もいつもよりボールを見つめているので、サービスまでもよくなっている。トスの時は、ボールが回転していないのでもちろん縫い目がはっきり見える。こうして、突然、いつもより一割程度は腕が上がった感じで、試合は快勝できた。

先日、一昨年、横浜市民大会七十歳の部で優勝した道下さんのペアと試合をして、勝てはしなかったが、四ゲームを取れ、四対六と善戦した。これは、私にとって大金星である。娘婿の何気ない一言でテニスが一段と楽しくなった。                          (二〇一二年)









イェルク・デームス ピアノリサイタル

ウィーンにイェルク・デームスというピアニストがいる。一九二八年生まれだから今年八十三歳になる。一九五六年ブゾーニ国際コンクールで優勝して以来、世界各地で演奏活動を行っている。パドゥラ・スコダ、フリードリッヒ・グルダと共にウィーンのピアニスト三羽烏として令名を馳せてきた。

今年五月二十三日、横浜でデームスのリサイタルをきいた。会場は京浜急行上大岡駅に隣接する港南区民文化センターである。開場十分前の十八時二十分に入口に着くと、既に四十人位の人が並んでいた。最後尾につくと、私の後ろにも人が並び続け、十九時の開場の時には百人を軽く超える人が列をなしていた。


私は四箇所の席に座ってみてピアニストの指の動きが一番見えやすい席を探し、前から六列目、左から六番目の席に座った。余り前の席だとピアノが目線の上になって鍵盤が隠れてしまうのだ。


ステージの中央に置かれたグランドピアノは、世界四大ピアノメーカーのひとつ、ドイツのブリュートナー社が創業五十周年を記念して、一九〇五年に製造したジュビリーモデルである。かつてウィーンのデームス邸にあったピアノである。果たしてデームスは“ジュビリー”からどんな音を奏でるのだろうか。開演までの三十分間、わくわくした気分で今年百七歳のピアノを見詰めていた。開演十分前にはホールは観客で埋まった。開演前にアナウンスがあった。

「本日のリサイタルはライヴ録音を行いますので、ご配慮くださいますようお願いします」普通、開演前のホールはざわざわした感じがあるものだが、この夜は開演が近づくにつれて、満席の会場はざわめきが消えておごそかな雰囲気に包まれた。


やがてホールのライトがゆっくりと照度を落としていき、スポットライトがステージを明るく照らし始めた。ステージ左の袖から白髪のイェルク・デームスがゆっくり歩いて出てきた。明らかに八十を疾うに過ぎた老人である。靴は革靴というより、茶色のカジュアルシューズに近い。


拍手を受けてピアノの前に座った。バッハ作曲パルティータ第一番「前奏曲」の演奏が始まった。指が白く、長い。やわらかく、しかし芯のある音が、なめらかなレガートでたっぷり歌っている。私の一・三倍はありそうな長い指が鍵盤とさほど離れていない位置を保ったまま、慈しむように鍵盤に触れ、踊っている。余りの音の美しさに思わず目を閉じてきき入った。二百六十年前に六十五歳で世を去ったバッハを、カバーを開けたグランドピアノの弦の上に呼び寄せているようだ。


肩、腕、手首、指、一切の力が抜けている。早いパッセージでも軽々と妙なる音色で歌っていく。私の真後ろに本格的にピアノをやっているような中年女性が夫とおぼしき男性と座っていた。

「きれいな音だわねぇ」

とため息をもらしている。


ベートーヴェンのピアノソナタ第十七番「テンペスト」。中学生の頃から五十歳位までよくきいていたベートーヴェンの曲を、重過ぎると感じてきかなくなって十年ほど過ぎている。久し振りにきくベートーヴェン。この曲は多少モーツァルト的雰囲気がある。デームスの演奏の音量が上がった。バッハ、モーツァルトと鍵盤の近傍に留まっていた手の上下幅が大きくなった。力強く、男性的にピアノがうたう。低音部が美しい。目を閉じて体を音に委ねた。まさにオーケストラの音量だ。小指の根元にもしっかり筋肉がついていて堂々たる音が出る。そして、歌われた音が驚くほど力を維持したまま長く伸びていく。ペダルを踏み続けているのだ。日頃、私の先生から言われていることのすべてが完成している。


低音部のフォルテッシモも中音部、高音部の音量と、にくらしいほどバランスがとれていて、美しいハーモニーになっている。八十三歳でもこんなに若々しくうたえるのだ。ベートーヴェンってこんなに美しかったのか。第三楽章は高音部の主旋律が際立って美しい。いつまでもきいていたい音楽。鍵盤上のデームスの指のダンスはメジャーリーガー、イチローのバット捌きのように見事だ。


手が痛くなるほど拍手をした。聴衆の喝采は鳴り止まず、デームスは舞台袖から再び現れ、右手を胸に当て深々と頭を下げた。


リサイタルはこの後、ドビュッシー、フランクの曲が続き、興奮さめやらぬ聴衆の拍手に応えて三曲のアンコールが演奏された。終ったのは九時二十分を過ぎていた。二時間半近くの熱演だった。終演後、多くの人が舞台近くに集まってジュビリーを写真に収めていた。


このブリュートナー社製のジュビリーは、普段は私が住んでいる横浜市旭区柏町の楽器店「ピアノクリニック ヨコヤマ」の店舗に置かれている。この店の横山社長がデームスがオーストリア、フランスに所有している八十数台のピアノの調律をしている関係で、数年前にデームスから譲り受けたピアノなのだ。かって一千万円余りの値段がついていたが、今は非売品と標示されている。


演奏会の三日前、私は今回のリサイタルチケットを買いにこの店に行き、ついでにジュビリーを弾かせて貰った。楽譜は持参していなかったが、ブルクミュラー第三番の「パストラル(牧歌)」、第十五番の「バラード」と、『バーナム ピアノ テクニック 3』の四つの練習曲を二十分ほど弾いた。驚くほど甘い音が出た。音も大きい。鍵盤は今は禁止されている象牙で出来ていて、指の湿り気のため指が鍵盤に吸い付く感じがする。

「昨日、デームスさんがこのピアノで練習されていました。今夜は上野の東京文化会館でリサイタルです」

帰ろうとする私に店員の人が声をかけた。


三日後の夜きいたジュビリーは、ほとんど全く違う音を出していた。弾き手が月とスッポンの違いなのだから当然のことだ。それにしても、三日前に手に触れたピアノを世界の巨匠と言われるアーティストの演奏できけたことは特別なことであり、幸せな経験だ。生涯忘れられないコンサートになるだろう。        (二〇一一年)



四台の楽器たち

わが家に初めてやってきた楽器はピアノである。息子が七歳の頃だと思うので、一九八四年前後のことだろう。私の家では木目調の製品が好きなので、隣町の楽器店でヤマハのマホガニー色のアップライトピアノを買った。ピアノの脚は猫脚で、九十万円位だった。

最初は息子が使った。しかし、彼が近所の先生にレッスンを受けたのは二年足らずで、直ぐにピアノは止めてしまった。その後、三歳年下の娘が使い始め、中学二年位までレッスンを受けていたので、七、八年はピアノをやっていたと思う。ソナチネ位までは弾けるようになったが、その後は大学受験があったり、進学した薬学部の勉強が大変だったりで、娘もピアノは中断してしまった。それ以来わが家ではピアノは用のなくなった粗大ごみとなった。



それから二十年ほど経って、このピアノがたどたどしい音を出し始めた。五十五歳の私が、ある日突然ピアノを始めたのである。二〇〇六年の二月だった。全くのど素人であったが、先生はウィーンフィルの主席チェロ奏者とCDを出しているという実力派ピアニストの方にお願いした。幼児用の教則本『バーナム0巻』と有名な『バイエル』の八番から練習が始まった。



テニスや料理など趣味の多さが災いして、昼間練習できない日が多い。早朝や夜に練習しないと、とてもレッスンの速度について行けない。そこで、二〇一〇年の九月に電子ピアノを買った。「できるだけピアノの鍵盤タッチに近いモデル」という条件で一年間捜し、カワイのデジタルピアノ、CA12を十二万三千円で購入した。電子ピアノは書斎の机の真横に置いており、机の椅子から立ち上がり、九十度左回転すると電子ピアノの椅子に座れるようになっている。電子ピアノは練習の際に全く時間の制約を受けない点で、最高に優れものである。今夜も夜十一時を過ぎて鍵盤に向かい、ヘッドフォンをつけて楽譜を開いた。ブルクミュラー作曲の練習曲第十五番、バラードである。右手がスタッカートで左手はテヌートと難しいが、何度も練習していると少しずつ合ってきた。何ともミステリアスな雰囲気の曲で、夜のしじまの中で実に愉しい時間を過ごせた。音楽を聴くだけに較べ、演奏することは音楽を格段に深く愉しめると痛感している。



私がピアノを始めて一年半ほど経った頃、妻が何を思ったのか、ヴァイオリンをやりたいと言い出した。私のピアノの先生の友人で、桐朋音大を卒業されザルツブルクのモーツアルテウム音楽院で学ばれた三十半ばの先生に教わることになった。妻はたまたま家にあった一万円位のスズキのヴァイオリンを持ってレッスンに出掛けていた。



それから一年ほど後、夫婦で兵庫県の妻の実家に行った。妻の弟は中学校の数学教師をしており、その配偶者は音楽の先生である。妻がヴァイオリンを始めた話をすると、使っていないヴァイオリンがあると、物置の中をごそごそ探し始めた。やがて、どうぞ持って帰って下さいとヴァイオリンケースを差し出した。音大時代、ピアノ科だった彼女が副科でヴァイオリンを選択したので買ったものだという。ドイツのパウルスブランドの楽器で、インターネットでみると、ヴァイオリンが四十万円、弓が三十万円位している。思いもしない上等な楽器を手に入れて妻は有頂天になった。



それ以来、妻の練習は半端なものではなくなった。弾いて、弾いて、弾きまくる。私より音楽の才能は格段にあるようで、めきめき腕を上げていった。その内、ご近所からうるさいとの苦情を受けるようになった。やむなく、近所のリサイクルショップでヤマハのSV130というサイレントヴァイオリンを買った。新品価格は七万五千円であるが、これを二万七千円で購入した。朝方や夜はサイレントヴァイオリンでご近所に気兼ねなく練習ができるようになった。



妻がヴァイオリンを始めてから六年目を迎えた。ドヴォルザークの「ユーモレスク」も暗譜で弾くし、最近はヴィブラートの練習にも励んでいる。実に幸せそうな顔をしてヴァイオリンを弾いている。

いろいろな時期と事情でわが家にやってきた四台の楽器達。練習すればするほど、上達すればするほど、より美しい音を奏でてくれる。ピアノもヴァイオリンもとっくに減価償却が終わっている。後は付加価値を得るだけである。まさにわが家の宝物だ。



私の夢は、あと六年後、七十歳でハイドンのソナタを弾けるようになることである。そして、ザルツブルクかハンブルクで百年ほど前に製造されたグランドピアノを買いたい。今住んでいる町に、ヨーロッパから古いピアノを輸入して、修理・販売する店があり、時々訪ねてスタインウエィやベーゼンドルファーの年代物のピアノを弾かせて貰っている。鍵盤のタッチが柔らかく、音の響きがすばらしい。この店に輸入と修理を依頼しようと思っている。

 ハイドンのソナタを弾けるようになることは、とても難しいことである。しかし、「強く願えばかなえられる」ことを信じて、先生のもとに通い、スローだが、ステディに(着実に)練習を続けたい。